最期について考える
先日34歳になりました。
33歳まではぎりアラサー、まぁこんなもんかなぁ〜という感じであまり年齢は意識していなかったのですが
34歳になると一気に30代半ば感が激増。
来年は35歳なので、30歳の時に受けようと思いながら息子の産後のタイミングで受けられていないままだった人間ドッグを、今度こそ受けたいなーなんて今から思っています。
さて。今日は生と死について、私の考えを書きます。
苦手な方がいらっしゃったら読まないでください。
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どう生きるか
どう死ぬか
どちらをより意識していますか?
ふつうは生き方の方が大事だと思うのですが
正直な話、私はどう生きるか、今何をするかより
死ぬ時にどんな風に死んでいくかということの方が、ふとした時に考えることが多いです。
今を全力で生きて、その結果として悔いを残さずすっきりと死んでいくのでもいいのですが
「死に方」とか「死ぬ時にこうでありたい」ということについて考えを巡らせることの方が多いです。
どう生きたかは、自分自身が死ぬまでの走馬灯の中で、こんな風に生きられて良かったな〜と思い返したり、これはやり残したかもしれないと感じたり、
あとは広く周りの人の記憶の中で、あの人こうだったよね、こんなところが素敵だったね、と思い出されると思うのですが
どう死ぬかは、とても身近な特定の人々、主に最期を目の当たりにするであろう家族の心の中にずっと残ると思うのです。
要は、最期を迎える過程に後悔が生じると、その事がずっと心残りとして、家族や近しい人の胸の中には残り続けてしまう。
もしも人生の中で何かを成し遂げた喜びや素晴らしさよりも、最期の瞬間に関するネガティブな要素の方が強かった場合、どんなに素敵な人生でも、そのネガティブな印象の方がいつまでも引っかかってしまうのではないかと。
たぶん、私の中では自分が生きる上でどうしたいかよりも、いかに周りの人に悲しい思いやもやもやをさせずに爽やかにいなくなるか、みたいな方が大事なんだと思います。
そういう意味で、私が決めていることが3つあります。
①私自身の意思疎通が取れなくなり、回復が到底見込めない状況になった時は、不要な延命処置はしない
②脳死判定を受けた場合の臓器提供の意思決定は家族に委ねる
③見られたくないものはできるだけその都度処分し、身の回りを常に整えておく
①については、私が職務上多くの最期を目の当たりにしてきたことが関係するのですが、
私が働いていたICU(集中治療室)では、その環境の特殊性から、なかなか静かな最期を迎えられることは少なく、
治療の結果として元の姿とは変わり果てた様子になってしまったり、それを目の当たりにしなければならない家族の姿が目に焼き付いています。
私の記憶には、今もその時の映像や、音や、におい、温度、シーツの感触、空気感がはっきりと残っています。
そういうこともあり、できるだけ普段の姿のまま終わりたいし、長い期間自分の意思疎通の取れないところで他人に体を拭かれたり、処置をされたくないので、可能な限りどこかで線を引いてほしいと思っています。
②については、絶対こうしたい、という希望は自分の中で無く、残された家族がその時の状況で、臓器提供について前向きに考えられるのかそうでないのかによって決めてくれればいいのかな、と考えています。
③については、こればかりは突然の場合に何かと困ると思うので。
なるべく下着は綺麗なうちに新調するとか、夜ノーブラで寝ないとかそんな些細なことですけど。
母方の祖母が、100歳を超えて加齢に伴う心不全だったのですが、最期少しかわいそうな亡くなり方をしてしまって
高齢で元々小柄だった身体も30キロ台まで小さくなっていたのに、延命処置を受け、おそらく体重に見合ってなかったであろう換気量の設定で繋がれた人工呼吸器で、吸気のたびに体が弾むほど無理矢理換気され
タオルケットもかけられずに寝かせられた姿を見て、私の兄は静かに泣いていました。
もう10年ほど経ちますが母はいまだに心残りになっているので
母とは折りに触れてそういう話はしているのですが
肝心の夫にこういう話をすると、どうせ俺の方が先に死ぬから、と言ってあまり聞いてくれないんですよね…。
医療関係者のくせに妻が死ぬ場合の話は聞きたくないそうで。
もちろん私だってまだまだ死にたくないですけど、普段からそういう話がナチュラルにできることって大事だと思うんですけどね。
みなさんは、こういう話、パートナーや家族としますか?
律花
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